
船越義珍先生と松濤館
本土に空手を伝えた近代空手の祖・船越義珍先生は、1868年、沖縄県首里市山川町に生まれました。代々藩主に仕えた武士の家に生まれましたが、幼少のころは、病弱でひ弱な体質だったようです。小学校入学と同時に、当時首里手の達人だった安里安恒先生の長男と遊ぶようになったことがきっかけで、安里先生から唐手の手ほどきを受けるようになりました。それ以後毎日欠かさず、夜になると安里先生宅の庭へ通い、何年もナイハンチ(鉄騎初段)の稽古を続けられたそうです。
当時の琉球は薩摩の禁武政策の影響で、島津家に対する気兼ねや遠慮が根強く習慣として残っていたため、唐手は公に習うことができなかったようです。そのため稽古は夜中、密かに行われていました。当時の稽古は、ただ型を覚えればいい、というものではなく、一つの型のなかにひそむ何かを本当に身につけるまでは、何年たっても「よし」とは言われなかったそうです。その後、やはり首里手の達人であった糸洲安恒先生にも師事されていますが、この両先生とのめぐり合いが、船越先生の人生を決めたといっても過言ではありません。
船越先生は唐手の修行を続けながらも、19歳の時小学校準訓導教員の検定試験に合格され、以後30有余年教壇生活を送りました。退職後、沖縄尚武会会長、沖縄師範学校武道教師となりました。1921年、皇太子(後の昭和天皇)がヨーロッパ外遊の途中に那覇港に上陸されたとき、船越先生は首里城にて師範学校の生徒を指揮し、唐手術の歓迎演武を行いました。1922年、文部省第一回運動展覧会出席のために上京し、この展覧会で唐手術の演武と解説を行いました。船越先生は公相君(クーシャンクー)を、そして糸洲先生の直弟子で当時東京商科大学に在学し、後に沖縄県空手道協会会長、松濤館最高師範などを歴任された儀間真謹先生(1896−1989)がナイハンチを演武されています。さらに柔道の嘉納治五郎講道館館長(1860-1938の要請を受け、講道館の柔道の高段者相手に唐手術の講習を行い、これが本土に於ける唐手術普及の第一歩となりました。
当初船越先生は、展覧会が終わったら沖縄に帰る予定だったようですが、船越先生の最初の弟子である日本画家の小杉放庵画伯から指導を依頼され、本土における唐手術の普及を決心されたのです。そして沖縄県の学生寮である明正塾に住み込み、その講堂を借りて仮の道場とされました。
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