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早稲田大学空手部
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1931年〜
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早稲田大学空手部は、大浜信泉先生を部長に、船越義珍氏を師範にむかえて1931年に創部した、大学の体育会のなかでも非常に伝統のある部です。ここでは、空手部の70年以上に渡る歴史についてご紹介します。
▼1936年〜
▼1941年〜
▼1946年〜
1931年(S.6)
9月27日
早稲田大学第一高等学院空手部発行式挙行
当日は大浜信泉会長の祝辞、船越義珍師範の講話、慶大、拓大、両校による応援演武などが行われた。
発足当時の部員は次の通り。
野口 宏、今井 盃、岩田満男、横山 (水田) 二雄、赤崎利馨、萩原正義、長谷川萬年、安居院栄治、植村 茂、中村賛蔵、有滝 一、森下彌三雄、江上 茂、松田林平、太田美三郎
この年、船越義珍師還暦。雑誌「松濤」記念号を刊行。
雑誌「松濤」は3号まで刊行された。
1932年(S.7)
4月
学院の空手研究会、体育会に加入当時、大学の唐手研究会は稽古をやっておらず、有名無実であったが、高等学院は次の指導陣を得て研究会を発足させていた。
第一高等学院
部長 古川秀雄教授
代表委員 野口 宏、横山 (水田) 二雄
第二高等学院
部長 幸野 清教授
代表委員 江上 茂、松田林平
この年、組手(五本)を練習に取り入れる。
1933年(S.8)
大学の唐手研究会、自然解散
船越師範のご指導による空手研究会が、早稲田体育会に入会。
早稲田大学空手部
部長 大浜信泉教授
師範 船越義珍先生
師範代 下田武先生
代表委員 萩原正義、赤崎利馨
委員 野口 宏 (主将) 、横山 (水田) 二雄、 江上 茂、植村 茂、太田美三郎
第一高等学院
代表委員 横山 (水田) 二雄、森下彌三雄
第二高等学院
代表委員 植村 茂
1934年(S.9)
<代表委員> 赤崎利馨、萩原正義
7月20日
夏合宿 (修善寺)
8月
第1回九州遠征
10月
下田武師範代ご急逝
この年より船越義珍門下の松濤館流各校との交歓稽古を行う。
1935年(S.10)
<代表委員> 野口 宏、江上 茂
故下田師範代の後任に船越義豪先生(義珍師範の三男)を迎える。
6月
朝日世界ニュース第99号(朝日新聞社)が「早大空手部練習風景」 を収録、当時の横綱双葉山の雄姿と共に放映される。
7月
第2回九州遠征
秋、東京学生空手道連盟設立準備会開かれる。
松濤館道場建設計画について、早大、慶大、一高、商大、日医大の各校で協議。
「空手道教範」(船越義珍著)が出版される。
1936年(S.11)
<代表委員> 横山 (水田) 二雄、植村 茂
春、豊島区雑司ヶ谷に松濤館道場が建設される 。
日本学生空手道連盟発会式(青山会館)
会長 西郷吉之助
顧問 各大学部長
各大学委員が出席
秋、「旌旗」(第2号)を刊行。中村賛蔵、奈良修介が編集に携る。
1937年(S.12)
<代表委員> 小菅敏夫(戦死)、水野勝之
1938年(S.13)
<代表委員> 加藤 東、渡辺敬太郎(戦死)
1939年(S.14)
<代表委員> 鎌田(渡部)俊夫、上田正敏(戦死)
念願の専用空手道場が新築落成。
道場は学生ホール裏のバスケットコート脇にあり、右に拳斗部、左レスリング部の道場と隣合わせであった。
空手道場の広さは約165平方メートル。
夏合宿(伊豆)
この年の夏、鎌田俊夫と上田正敏が台湾稲門会会長の要請によって、約1ヵ月にわたって台北市の武道館や各地の警察署において空手の演武指導を行った。
1940年(S.15)
<代表委員> 鎌田(渡部)俊夫、上田正敏(戦死)
慶大との交歓稽古
拓大との交歓稽古
松濤館流演武会(京都・武徳殿)
船越師範引率のもと早大をはじめとする松濤館流各大学が参加。
空手部創立10周年ならびに新道場落成記念演武会を開催。
夏合宿(箱根)
1941年(S.16)
<代表委員> 山田孔夫、三谷鉄之助(戦死)
夏合宿(佐渡)
100名を越える参加者で大盛況だった。
この年より非常時のため卒業期が12月に繰り上げられる。
10月
<代表委員> 細川隆一郎、鷲尾卓三(戦死)
(昭和17年 9月まで)
10月26日
早慶演武会
1942年(S.17)
3月
春合宿(伊豆・谷津)
9月
送別会(新橋・双葉)
<代表委員> 村松幸太郎(戦死)、奥山忠男
夏合宿(佐渡)
11月29日
大日本学生空手道連盟交歓稽古(早大)
12月
納会
1943年(S.18)
4月
合宿 (奥多摩・氷川)
6月
学連演武大会 (青年会館)
本大会は戦前最後の大会で、早大が当番校に当たった。
8月
夏合宿 (成増)
送別会 (大隈会館)
9月
<代表委員> 水上八郎
札幌遠征
遠征メンバーは水上八郎、須貝富安、田中久生、富沢俊一郎、渡辺洋一、広瀬 豊、藤井の7名だった。
1944年(S.19)
時局緊迫のため空手部員も出征、学徒出陣、勤労動員などで解散。
残った部員は、稽古継承を託された理工学部の菅野道三のもとで自由稽古。
秋から午後8時以降管制下で、有志が道場に集まるという状況だった。
この年、空手部は柔道部空手班と改称される動きもあった。
10月10日
これ以後は、理工学部系を除くほとんどの部員が学徒動員のため出征することとなった。
1945年(S.20)
4月
東京空襲により道場を失う
8月15日
終戦
GHQの占領政策により、武道はすべて禁止される。
だが復員した各部のOB、現役部員によって体育会各部活動の気運がみなぎる。
秋、空手部においては富沢俊一郎、鎌田 博、渋谷松男などが復員し、武道館(旧体育館)の2階を道場および部室として使用。
船越師範の額、鏡、こうり、火鉢などを搬入し、「旧空手部員集まれ」の掲示を出す。
その結果、第1回部員復活準備会が開催される運びとなった。
大学側への部復活交渉には、広西元信、鎌田俊夫両先輩が当たった。
11月23日
船越義豪師範代ご逝去
1946年(S.21)
4月1日
空手部復活、稽古を開始
旧体育館2階で、富沢、鎌田(博)、渋谷の各部員と新人1名で練習を始める。
その後、新人が次第に入部して来た。
<代表委員> 富沢俊一郎、大神大祐
5月
空手部、体育局から正式に認められる。
年間予算4千円が承認された。
6月1日
第1回部員総会
新旧部員43名が集まった。
7月
夏合宿(佐渡)
戦後初の合宿には、奥山先輩ほか25名が参加した。
1947年(S.22)
<代表委員> 吉田悦造(病没)、渡辺洋一(同年8月まで)
8月
夏合宿(佐渡)
吉井主事、奥山先輩ほか42名が参加した。
慶大との交歓稽古が復活。
9月
<代表委員> 原田(志岐)五十郎、渋谷松男
11月
関西各大学選抜(剛柔流、糸東流)と第1回交歓稽古を開催。
米国の「ライフ」誌(1947年10月13日号)誌上に、"ジェントルマン・スポーツ"として早大空手部の原田、鎌田の組手や吉田の試割などが掲載され、海外にも注目される。
1948年(S.23)
<代表委員> 鎌田博、渋谷松男
この年度より空手部年間予算1万円に増額される。
春、中大、専大と交歓稽古
5月5日
公開演武(千葉教育会館)
6月3日
関東学連結成準備会(早大)
早大、慶大、拓大、中大、専大の5校が参加。
夏合宿(佐渡)
体育会松本先生をはじめ鎌田(渡部)、細川先輩など53名が参加。
秋、学連演武大会(京橋公会堂)
慶大(小竹)、拓大(島村)、早大(鎌田)のほか法大、学習院、千葉外事、明大、日大などが参加。
11月
合同昇段審査(早大)
早大のみ7名が昇段した。
1949年(S.24)
<代表委員> 武田穣二、川辺三郎
4月3日
松濤館流の「形」統一を討議する(早大)。
各大学のOB、現役部員が多数参加。
8月
夏合宿 (佐渡)。28名が参加。
秋、慶大との交歓稽古(早大)。
大阪専門学校との交歓稽古
10月
拓大との交歓稽古
1950年(S.25)
<代表委員> 前年度と同じ
4月
米空軍体育指導員に空手指導を行う(講道館)。
野口(早大)、小幡(慶大)、中山(拓大)の各OBが指導に当たった。
この空手指導は昭和28年春まで続けられた。
8月
夏合宿(千葉・勝浦)。35名が参加。
10月
松濤館六大学京都遠征
法大、中大、専大、拓大、慶大の36名が同志社と立命館大の剛柔流と対戦する交歓稽古を行った。
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