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2004年3月15日: 先輩との出会い

稲門空手会会長 内藤武宣

空手部に入部した頃
 私が、はじめて福岡市内の空手道場に入門したのは、昭和28年(1953年)の春、高校一年の時でした。今年で丁度50年「空手」とともに歩んできたことになります。
昭和32年(1957年)早稲田大学に入学した私は、学生ですし詰め状態の教室を見て大変失望しました。少しでも遅れて行くと座る椅子はなく廊下に溢れてしまうことさえあったからです。こんな生活に疑問を感じながら学園内を歩いていると、体育館から響いてきた鋭い掛け声、その気合いに導かれて2階への階段を上り空手部の練習を見学しました。厳しい練習風景に感動した私は、入部を打診する為おそるおそる部室のドアをノックしました。道場から汗も拭かず応対に現れたのは当時主務の寺本明男さんでした。端正な顔立ちの寺本さんから丁寧な説明を受けて一も二もなく入部を決意、晴れて早大空手部の「新人」となりました。

厳しい練習に耐えて
 当時の日本は、まだ貧しい時代でした。映画を見る以外はこれといった娯楽もなくそのせいか200人近い入部者がありました。さしも広い旧体育館道場も新旧部員で溢れ手狭に見えました。練習の厳しさは予想をはるかに越えて恐怖すら感じました。それもそのはずあまり新人が多いと「中古」「中堅」「幹部」の練習が十分出来ないので、なるべく「間引き」する方針だったそうです。私もその対象者になっていたことを卒業した後で知りました。
それにしてもこんなに多数の新人は現在の幹部から見れば誠に羨ましい話ではないでしょうか。社会が多様化して楽しいことも増えた今日では、部員が減少するのは致し方ないことだと思います。結局空手は自分自身との戦いですから「一騎当千」「少数精鋭」を貫き、力を合わせて強い空手部をつくって欲しいと願っております。

地獄の塩原夏合宿
 最初の夏合宿は栃木県の塩原温泉でした。九州から東京に出てきたばかりの私は「温泉をのんびり味わえる」ことを楽しみにして参加しました。これはとんでもない思い違いでした。この時までには新人も大分減少していましたが、それでも80人ほどは参加したと思います。合宿中、基本や型のつらさはなんとか耐えられたのですが、組み手が始まるとまるで地獄でした。「伝統の早稲田の鉄槌受けてみよ」と三上豊主将の号令一下、新人の上腕部には容赦なく拳が打ち下ろされます。みるみる両腕が腫れ上がり、帰りには学生服の袖が通らなくなるほどでした。一日の練習が終わると、痛い体を引きずりながら床板に飛び散った自分達の血痕を雑巾で綺麗にふき取るのが新人の日課でした。この厳しさに耐え切れず新人の半分近くが次々に夜逃げしてしまいました。合宿の最終日に川原光雄副将(新人係)を中心に撮影した記念写真には41名の同期しか写っていません。
ただ、その後退部した旧新人達も久しぶりに会うと「塩原合宿の体験」を昨日のことのように懐かしく語り合うから不思議です。

名コンビの三上・川原両先輩
 当時の早大空手部は学連とは別の道を歩んでいました。有段者は黒帯ではなくスクールカラーのエンジ色の帯をつけていました。部の再建を目指して三上主将と川原副将を中心に連日厳しい練習が続けられました。お二人とも幹部として、私達新人にとってはカリスマ的な存在でした。両先輩は学院時代からの名コンビでしたが、川原さんは惜しくも早逝されました。いまだに残念でなりません。両先輩への憧れの気持ちは、新人の時から45年ちかく過ぎた今でもすこしも変わることはありません。

渋谷監督の厳しい指導
 入部して2年目、空席の監督に渋谷松男先輩が就任されました。次々に新しい方針が打ち出され、有段者の帯も黒帯に変わりました。監督が現れただけで道場内に緊張が走りました。「渋谷理論」とでも言うべき空手に対する深い知識を駆使して基礎的なところからたたき直されました。私が主将の時、早慶空手定期戦の復活や沖縄遠征を進めるのに当ってはいろいろご相談に乗っていただきました。ただ学連への参加については「時期尚早」と言われ準備だけして1年先に延ばしました。卒業後、毎日新聞の記者をしていた私に「空手道入門書」を書くように薦めていただいたり、空手実技の講師の後任にご推薦いただくなどいつも心にかけていただきました。

渡部先輩の励まし
 新人の時は小さくなって部生活を送っていた私達ですが、「中古」になると少しは気持ちに余裕が出てきました。昭和33年(1958年)は佐渡島の夏合宿を終わった後、引き続き群馬県沼田市で秋の強化合宿が行なわれました。地元の有力者である星野光先輩のお世話で実現したとのことでした。練習中、組手が始まるといつの間にか私の後方に渡部俊夫先輩が立たれ「それ行け」と叱咤激励されます。組み手を繰り返しているうち渡部先輩のパワーに押されて前方の「中堅」に対する恐怖心がすっかり消えてしまいました。すると面白いほど鋭い突きが決まり始め、相手がたじたじとなるのがわかりました。その時から自信のようなものが芽生え、目に見えて技が上達しました。それ以来、通常の練習後も渡部先輩が来られるたびに、私の突きの相手をしてくださいました。今年86歳の先輩にはいつまでもお元気で道場にお顔を出していただきたいと思います。

野口先輩の力強い「型」
 部の創始者である野口弘先輩には「型」をご指導いただきました。どちらかと言えば「平安」のほか「抜塞」「鉄騎」など力強い感じの「型」を教えていただきました。
自らの太ももをバシバシたたきながら「まぁ一回」「まぁ一回」とくり返し続けられるのです。当時はさすがに辟易しましたが、今も正しい型を演武出来るのはその時の熱意あるご指導のおかげです。92歳でお亡くなりになりましたが、ご子息の野口哲亮先輩から「大往生だった」とお聞きして「さすが」と感銘を受けました。

富沢先輩と鎌田先輩
 空手部創立50周年の時には、実行委員長が鎌田博先輩で、兄貴分の富沢俊一郎先輩が財務を引き受けられました。私も「50年誌」の編纂を任されましたが、打ち合わせの後は必ず酒盛りになった当時を今も懐かしく思い出します。私は学生時代から随分大酒を飲みましたが、富沢・鎌田両先輩と三上先輩の飲みっぷりにはかないません。三上先輩とは今でもご一緒に飲めることを楽しみにしておりますが、富沢・鎌田両先輩は既に鬼籍に入られました。きっとお二人は今も天上において杯を酌み交わしながら、空手部のことを語っておられることでしょう。

大島先輩の迫力と眼力
 私がはじめて大島劼先輩の迫力に満ちたお姿に接したのは「中堅」の時でした。昭和35年(1960年)の夏、空手部が「沖縄遠征」を計画した時、丁度帰国されていた大島先輩に団長をお願いしました。一行は上林弘孝コーチ、白井潔副将、笠井恭二主務、中堅の本多定晴君そして主将の私です。まだ米軍の施政権下にあった沖縄でしたが、本土から来島した私達を大歓迎してくれました。滞在中は毎日のように各地の道場や空手師範をお訪ねして互いに演武を披露し合いました。
琉球大学との交歓稽古では2千人の観衆が見守る中で演武しましたが、最後に突然大島先輩から「内藤、来い」とお声がかかり、一本組手が始まりました。私としても「ここで恥ずかしいことは出来ない」との一念で大島先輩に向かってにじり寄ります。その時の先輩の眼力は物凄いものでした。緊張で静まり返っていた体育館の空気がその威力に押されて揺れ動くのが感じられました。次の瞬間私は渾身の力を振り絞って突きました。あとで、大島先輩から「いい組み手だった。」とお褒めの言葉をいただき実に嬉しかったことを昨日のことのように思い出します。
後日、大隈講堂で報告の演武会を開催し大島先輩に講演をお願いしました。それから43年後、再び「記念講演会」に先輩をお招きできたことは、この上ない喜びでした。今も世界を舞台にご活躍を続けておられる大島先輩の存在は、私達後輩にとって大変心強く励みになっています。

船越師範と大浜総長
 近代空手の父、船越義珍師範は私が入部した直後に88歳で逝去されましたので、直接ご指導いただいたことはありません。しかし空手の大恩人である師範への尊敬の念は極めて深く、毎年鎌倉・円覚寺で行なわれる「松涛祭」には必ず参列してその偉大な御遺徳を偲んでおります。
 初代部長の大浜信泉先生(早大総長)にはご生前、公私にわたり大変お世話になりました。私ども夫婦が結婚する時も大浜先生ご夫妻に仲人をお願いしたところ快くお引き受けいただきました。空手の発展に大きな足跡を残して84歳で他界されましたが、誠にスケールの大きな真の教育者でした。改めてご生前のご恩に深謝申し上げたいと存じます。

 この他にも多くの先輩方からあたたかいご指導をいただきました。あまり長くなるので今回はこの位でペンを置き、次の機会に空手部で出会った諸先輩や同輩・後輩の皆さんとの思い出も書いてみたいと思っています。
 最後に部員諸君のご健闘とOB各位のご活躍をお祈りいたします。

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