本学の空手部は1931年創部。松濤館の空手を継承。
伝統ある体育会の中でも最も伝統と歴史を誇る部です。
TOP
早稲田大学空手部
稲門空手会
事務局連絡先
月間予定
写真館
部員募集

空手部について
流派について
空手部の歴史
戦績一覧
学連試合規定
機関誌(旌籏)
スタッフ・部員紹介
部員募集要項
道場・アクセス
空手部連絡先
稲門空手会について
稲門空手会会則
OBからの寄稿
機関誌(修文錬武)
会費納付のお願い
会員へのお知らせ
登録住所の変更
事務局連絡先
土曜会会則
土曜会練習日程
土曜会練習会場
土曜会事務局連絡先
■からて遍路・・・・《喜寿を迎えて》・・・・・
                                                              川口 史郎






 















からて遍路──喜寿を迎えて──
                                                                                                       

 一九四三年、大阪の商家の末っ子が第一早稲田高等学院(早稲田大学付属旧制高校)理科を受験したのは、白い実験衣、その角帽、校歌が格好よく思えたからに過ぎない。
 入学してみると、高と稲穂の丸帽は、いかにも野暮ったく、独乙語、化学、数学が厳しい上、クラスの人達は地味で、夏休み、心斎橋筋を闊歩していた、あの角帽姿とは程遠い。
 すぐ判ったことだが、彼等の殆んどは文系専門部(旧制)の人達だったらしい。
 第一早高の教授方は、何処か、ヨーロッパ調の小粋な雰囲気をお持ちでいらっしやった。
 戦時下、学問の自由を説かれ「学園は友を得る場」と仰云った院長先生、初等数学による古典物理学、万葉恋歌、春秋左氏伝、敬虔なキリスト者だった方の生物学、英文による宇宙創造史、東洋哲学、銃剣道の達人、シャイな大尉ドノの軍事教練などは、厳しい理系基礎学科の間の息抜きというだけでなく、自由で西欧的な校風と共に、今も懐かしく思い出される印象深いものであった。
 雪の新潟からマントに身を包んで上京したという者、生涯、丹波篠山弁を改めなかった者、六十人のクラスは留学生二人を含め、地方出身者が多く、その地方訛りバイタリティーに、東京出身者は逆カルチャーショックに陥った由。
 早速、煙草を吹かし、ニーチェ、ヘーゲルを齧り、いっぱしの旧制高校生ライフに酔った。
 ――このクラスは、後の早大理工学部大学院長を始め、学究の道に進む者が多かったが、中小企業経営者、ジャーナリスト、産婦人科医、参議院議員まで輩出、早稲田らしいといえば早稲田らしいクラスだった。
 母校八尾中学から多くのスポーツ選手が活躍していたので、二軍、三軍でも良いから、体育会に所属したいと思っていた。
 ラグビーには柄が小さく足も遅いので、級友の一人と軟式庭球部に入部したが、新人の中には全日本中学(旧制)選手権者などが居り、われわれ全くの素人は相手にされない。二人で詩吟部に行ったが、甘泉園(相馬様下屋敷跡、中山安兵衛血闘の碑がある)での初練習で、とんでもなく大声を出すように言われ、恥ずかしいので、すぐ辞めて了った。
 ――その夏、突然、学徒動員令が下り、徴兵延期されていた文系学生すべてが出陣することになったが、私達理系は三年制が二年制に短縮されたものの、入隊猶予ということで学園に残った。
 因みに、この秋、戸塚球場で、所謂、「最後の早慶戦」が行われた。試合後、私達が「若き血」を、慶應義塾の人達が「都の西北」を歌ったことが、鮮烈な思い出として残っている。

 厳しい理系の授業と東京生活に馴れるのに精一杯で、なんとなく秋頃まで過ごして了ったある日、別の級友に頼まれ空手部道場に付き添って行った。
 上級生の言葉が丁寧の上、新入部員のすべてが初心者、更には、「君の拳は大きいね」と言われ、つい入部して了った。──このことが全学生々活を通じての、苦難の始まりとなった。
 秋に入部したことに、プラス面とマイナス面があった。新人としての基礎を教わることが出来なかったし、終生、部に於けるランクが曖昧だった。
 だが、あまりにも激しかった夏合宿の後、多くの新人が退部して了ったそうだったが、私の入部した頃は上級生方は入隊準備に忙しく、従って恐怖の合宿は体験しなくて済んだ。
 若し体験していたら、一緒に逃げ出していたかも知れない。
 その後、時々、来られる理工学部の方を中心に、大神さんと云う新人係の方と、奥山さんと仰云ゃる先輩の方が教えて下さった。
 正規稽古に入る前、各自が自由に巻ワラを突くことに始まり、道場では基本、五本組手、型という順序の繰り返しだった。
 型は平安五っの型を中心に、五本組手では、上級生が思い切って踏み込んで来られるのを必死に受けるのだが、一年間は「上段揚受け」が不文律だった。
 五本組手では、上級生の拳に対する恐怖心の克服、間合、見切り、体捌き、腰の決まりなどの体得に役立つと共に、思い切って踏み込めるので、気迫、出足、突きの伸びなどが体得出来た。
 ──今の学生は何故、五本組手を稽古しないのだろう。
 情況に応じ、上級生が自由組手に誘導して下さり、新人は当てても良いが、中堅、幹部は絶対に当てなかった。当てないことが、その方達の美学だったかも知れない。
 唯、中古と称する二年部員は、その限りではなかったが、兎に角、上級生は強く、新人の拳の届くものではなかった。
 後年、それが口惜しく、又、当てられないのを良いことに、間合もなにも無視して突っ掛って行ったが、上級生方は、「あいつの八方破れの裏拳にも困ったものだ」と、弱って居られた。
 後に、「八方破れの裏拳」が私のトレード・ネームになったが、後輩の中には、それを言葉通り、信じて呉れている人が居たらしい。
 木の香も新しい目白の本部道場では、富名腰義珍大先生の温顔を、遠くから拝することが出来た。
 義豪若先生は早稲田の学生を愛され、よく道場にお見えになった由。私達にとっては、その激しさに、唯々、恐ろしかっただけだったが、もう、その頃からお顔色が勝れなかったようであった。
 はじめ、JR鶯谷駅近くの、父の知人宅にお世話になっていたが、二人の級友の誘いで千駄ケ谷駅前のアパートに移った。
 町内に鷹司邸があり、所謂、高級住宅街で、級友の一人は学生の無邪気さを演出することに巧みだったらしく、周囲からは好意の目で迎えられた。商店街の銭湯、雑炊食堂の娘さん達にも人気があったらしく、暖簾を下した後も入浴出来たし、いつも六人前の雑炊が確保されていた。
 深夜、神宮外苑を「野人の歌」、「逍遥歌」を高唱して歩いたが、彼はアパートに近づくに従い、一際、声を張り上げることを強いた。その方が、ご近所の好意を呼ぶというのだ。
 私だけ、講義と稽古の狭間に苦しんでいたが、何故か、いずれか一方を諦めようとは思わなかった。
 偶然、机を並べた四修(飛び級進学のこと)、数え年十七歳の秀才(後に宇都宮大学名誉教授)のお陰で進級出来、教室では自由で西欧的な雰囲気を、道場では東洋の神秘に触れることが出来た。
一九四四年、次兄、長兄が応召、父は他界、三兄は戦地に居たので、大阪の実家は女ばかりとなった。

 その八月、私達理科生も横須賀海軍工廠に勤労動員され、戦艦大和、武蔵と同排水量で、急遽、航空母艦に改装された「信濃」に艤装する25ミリ機関砲製造に当たることになった。帝国海軍直属というので期待したが、町工場の集合体といった機構で、少なからず失望した。
 艤装を終えた信濃は、呉軍港に向かい出港後数時間で米潜水艦に撃沈され、帝国海軍十数年の技術の集積も、私達の努力も一瞬にして潰え去った。
 ――日曜日返上して頑張ったが、私だけ、血沈速度が異常に上がり、中学時代休学の原因となった肺浸潤の再発として帰郷療養を命じられた。
 一方、私達は理系基礎学力不足のまま理工学部各科に進級、生涯、その負い目を担うことになったが、動員中の寮生活で、友情を確かめ合うに充分な時間を持ち得たことは幸せだった。
 
 ── 一九四五年三月、大阪の実家は一夜にして焼失、ご近所の方が大勢、亡くなられた。幸いと言っては申し訳ないが、女ばかりの家族は、既に大和盆地に疎開していた。
 その五月、疎開先から夜行で上京すると、下宿は焼けており、早稲田も焼けているというので駆付けて見ると、煉瓦造りの美しかった恩賜記念館も道場も、完全に焼け落ちていた。
 これで、空手部は無くなって了ったと思った。

↓続きは、こちらから。

<< 戻る >>

kkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkk
早稲田空手ジュニアクラブ  
空手部へのお問合わせ
会員名簿の確認・変更
事務局スタッフ・ログイン


*