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川口 史郎

からて遍路──喜寿を迎えて── 1 一九四三年、大阪の商家の末っ子が第一早稲田高等学院(早稲田大学付属旧制高校)理科を受験したのは、白い実験衣、その角帽、校歌が格好よく思えたからに過ぎない。 入学してみると、高と稲穂の丸帽は、いかにも野暮ったく、独乙語、化学、数学が厳しい上、クラスの人達は地味で、夏休み、心斎橋筋を闊歩していた、あの角帽姿とは程遠い。 すぐ判ったことだが、彼等の殆んどは文系専門部(旧制)の人達だったらしい。 第一早高の教授方は、何処か、ヨーロッパ調の小粋な雰囲気をお持ちでいらっしやった。 戦時下、学問の自由を説かれ「学園は友を得る場」と仰云った院長先生、初等数学による古典物理学、万葉恋歌、春秋左氏伝、敬虔なキリスト者だった方の生物学、英文による宇宙創造史、東洋哲学、銃剣道の達人、シャイな大尉ドノの軍事教練などは、厳しい理系基礎学科の間の息抜きというだけでなく、自由で西欧的な校風と共に、今も懐かしく思い出される印象深いものであった。 雪の新潟からマントに身を包んで上京したという者、生涯、丹波篠山弁を改めなかった者、六十人のクラスは留学生二人を含め、地方出身者が多く、その地方訛りバイタリティーに、東京出身者は逆カルチャーショックに陥った由。 早速、煙草を吹かし、ニーチェ、ヘーゲルを齧り、いっぱしの旧制高校生ライフに酔った。 ――このクラスは、後の早大理工学部大学院長を始め、学究の道に進む者が多かったが、中小企業経営者、ジャーナリスト、産婦人科医、参議院議員まで輩出、早稲田らしいといえば早稲田らしいクラスだった。 母校八尾中学から多くのスポーツ選手が活躍していたので、二軍、三軍でも良いから、体育会に所属したいと思っていた。 ラグビーには柄が小さく足も遅いので、級友の一人と軟式庭球部に入部したが、新人の中には全日本中学(旧制)選手権者などが居り、われわれ全くの素人は相手にされない。二人で詩吟部に行ったが、甘泉園(相馬様下屋敷跡、中山安兵衛血闘の碑がある)での初練習で、とんでもなく大声を出すように言われ、恥ずかしいので、すぐ辞めて了った。 ――その夏、突然、学徒動員令が下り、徴兵延期されていた文系学生すべてが出陣することになったが、私達理系は三年制が二年制に短縮されたものの、入隊猶予ということで学園に残った。 因みに、この秋、戸塚球場で、所謂、「最後の早慶戦」が行われた。試合後、私達が「若き血」を、慶應義塾の人達が「都の西北」を歌ったことが、鮮烈な思い出として残っている。
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